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「なあ、リカちゃん」
 
 背後から、マリアの声が聞こえた。
 
 リカルドにとっては不本意な『旅のつれ』。彼が強引に旅についてくるようになって、ふたりで歩んで、何日過ぎただろう?
 
「たとえば明日。目が覚めた時に、俺がいなくなってたら、どうする?」
 
 いつもの気まぐれか。内容とは裏腹に、問いかける声はまるで子供が悪戯でも思いついたかのように明るかった。
 
「…自発的に消えてくれるんですか? それは助かります。追い出す手間が省けてありがたい」
 
 そう思ったから。
 リカルドは振り返ることもなく答えた。
 
「…冷てぇヤツ」
 
 答えた声は、笑っていただろうか? 今となっては思い出せない。
 
 
 
 
 
  8.うたかた
 
 
 
 
 
 翌朝、目を覚ますと、そこに男の姿はなかった。
 あの日から、何度も見た景色。
 窓を覆うカーテンの隙間から、薄く朝陽が差していた。
 
 
 
 荷物をまとめ部屋を出ようとすると、部屋の前の廊下を宿の主人が掃除していた。主人はリカルドに気づくと、何故か慌てて視線を逸らした。何だ? リカルドは不思議に思った。視線を逸らす前、主人の視線はリカルドの後ろ、部屋の中を見ていたように思えた。
 
「…昨日は、悪いことをしたね。ちゃんと眠れたかい?」
 
 主人は、とりつくろうように無理に愛想笑いを浮かべ、そう聞いた。
 
「相部屋のことですか? いいえ。むしろ、満室だったのに泊めていただけて、感謝しています」
 
 相部屋の相手があの男だったことには驚いたが、昨夜のあの豪雨の中、宿に泊めてもらえたのはありがたかった。リカルドが礼を言うと、主人はいっそう気まずそうに「いや…」と言葉を濁した。リカルドは首を傾げる。相部屋のことではないのなら、何が悪かったというのだろうか。
 
「その…部屋…」
 
 主人は躊躇った後、観念したように言葉を搾り出した。視線は未だ、何かを避けるように手元のほうきへと落としたままだった。
 リカルドは自分が今出てきた部屋の扉を振り返った。扉にはめられた金属のプレートには「207」と番号が刻まれていた。
 
「いや何もなかったならいいんだ。その部屋は何年も使っていなかったからね。ちょっと心配だったんだ」
 
 主人は急に早口になってまくしたてた。何かを隠すように、視線を合わすことのないまま。満室だったから、仕方なかったんだ。と何やら言い訳に忙しい。
 リカルドは小さく息を吐いた。なるほど。いわくつきの部屋だったという訳か。あの男が聞いたなら喜びそうだ。そう思って、少し胸が痛くなった。しかし、主人の懸念に反して、部屋はいたって普通の部屋だった。彼は何故こんなに怯えているのだろうか。
 
「いえ、そんなに気になさらないでください。おかげで、同じ部屋に泊まっていた…旅人さんと話もできて、ゆっくり休むことができました。昨日の大雨では、外に出ることもできませんでしたから」
 
 怯えている主人が気の毒で、そう声をかけたリカルドを、主人は逆にいっそう驚いた顔で見た。
 
「…お客さん、冗談は止めてくれ。…昨日は雨なんて、一滴も降っていないよ」
 
 主人は何を言っているんだ? 昨晩ずっと、部屋を軋ませていた風の音や、窓を叩いていた雨音に、彼は気づかなかったというのだろうか?
 
 ふたりの間に一瞬、沈黙が落ちた。
 
 ひやりとした空気が通った。いつの間にか、閉じたはずの部屋の扉が薄く開いていた。
 
 
 忘 れ な い で 。
 
 
 そんな、女性の声が聞こえたような気がした。
 
 瞬間、主人はひぃと情けない悲鳴を上げ、ほうきを投げ出して階下へと走り去った。
 リカルドは、その様を困ったように見送って、薄く開いた扉をそっと閉めた。
 この部屋で何があったのか。あの声の主が何を忘れないで欲しいのか。リカルドには分からないし、主人を問い詰めて聞こうという気もなかった。
 彼は扉に向き直った。そして口には出さずに心の中でそっと思った。昨夜のことは絶対に忘れない。と。
 
 …あなたは、わたしと同じね。
 忘れられたくない。そうでしょう?
 
 今度ははっきりと女性の声が聞こえた。
 
 
 
 
 
 あの日から、何度も見た景色。
 ある日、姿を消した「旅のつれ」とは、その後再び出会うことが出来た。
 しかし、彼は何も覚えていなかった。何度出会いを重ねても、彼の記憶に私が刻まれることは無かった。
 あの日から今日まで、「はじめまして」を幾度繰り返したことだろう。
 
 それでも、私は忘れない。
 
 あのとき不思議な町から連れ出して助けてくれたのは、共に旅をしてきたのは、そして昨夜、くだらない怪談話をして過ごしたのは、マリアだったということを。
 
 
 
 
 
 かわいそうなひと。そう嗤う女性の声は、やわらかい朝陽と風の中に消えていった。リカルドは振り返らずにその場を去った。
 
 『彼ら』と彼とをつなぐ想い。それは、忘れられたくないという願いなのかもしれない。
 
 
 

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