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1.旅の記録
 
 
 町の静かな通りにひっそりとある古書店。そこは、旅人の日記だけを買い取り、内容がどのようなものであっても、その全てを売ることも捨てることもなく、大切に保管しているという。
 店の表に適当な板切れを立てかけ、「古書店」と愛想のない文字で書きなぐられただけの店には、ごく稀に物好きな旅人が訪れることがある程度で、普段はまったく客の姿は無かった。店の主人と猫一匹だけが、静かな店内で穏やかな時間を過ごしていた。
 
 そんな古書店の中に、今日は珍しく客の姿があった。
 
「んー?」
 
 ふと。いくつも並ぶ本の背表紙の中に、気になる文字を見つけて、マリアは手を伸ばした。
 
「イスファリア教国旅行記?」
 
 手にした本には、そうタイトルがつけられていた。
 
「イスファリア………あー、リカちゃんとこ」
 
 マリアはぽんと手を打った。
 そういえば少し前、共に旅をしているリカルドからその名前を聞いたような気がする。リカルドの故郷について聞いたときだ。その故郷の国の名が、たしか『イスファリア』といったはず。はじめて聞く名前だと、珍しそうに何度もその名を口にするマリアに、本当に知らないのかと心底不思議そうに何度も問われたので記憶に残っていたらしい。
 マリアは、なんとなくその本の表紙を開いてみた。
 
 イスファリア教国旅行記。
 ―長い旅を経て、私はついに『聖地』と呼ばれる地『イスファリア』へと足を踏み入れた。
 イスファリアの名は聖地として、知らぬ者の無いほど有名だ。しかし、実際の風土についてはあまり知られていない。
 
 私はこの日記に、謎が多いとされる彼の地について記す。
 
 1.神の国
 世界宗教であるイスファリア教の発祥の地。神の築いた国として、イスファリアは『聖地』または『神の国』と呼ばれることが多い。
 町は大きな湖に面した場所にあった。広いレンガの道を縁取るように花と緑が並び、町には白い石壁の家と教会のある景色。そこは、聖地と呼ぶに相応しい美しい国だった。

 
「神…? ああ。なんかリカちゃんの好きな人だっけ? …なんか薄っぺらい名前」
 
 2.人柄
 そこに暮らす全ての民は敬虔な教徒だった。常に神を敬い、祈りを欠かさず、この地に生きることを神に感謝している。イスファリアの民は皆、とても真面目で勤勉で慎ましい。口数は多くはないが心優しい。逆に、冗談が苦手ということや不正を許さない正義感など、若干堅物とも取れる人柄である。また、古くから戦いの多い地で生きてきた彼らは、信じるものと守るべきものの為なら、決して退く事なく戦い続ける強さも持っている。

 
「うあー…もしかして、リカちゃんみたいなのばっか住んでんのかイスファリア…。それ聖地じゃねえ軍隊か刑務所かなんかだ絶対」
 
 3.祭
 前述のように、イスファリアの人々は皆真面目だ。しかし、そんな彼らのあまり知られていない一面として、祭好きというのがある。

 
「ん?」
 
 祭好き。などという生易しい言葉で表現するのは、間違いかもしれない。彼らにとって祭とは、彼らの神に対する信仰心の体現といっても過言ではない。よって、彼らの祭に対する情熱は、凄まじい、の一言だ。
 大昔、イスファリアの民が戦のため、大きな川を隔てた地へと遠征していた時、祭の時期が近いことを思い出した兵たちは、全員が川を泳いで渡り、祭がはじまる前にイスファリアへと帰ったと伝えられている。

 
「…おいなんか、愉快なことになってきたぞ…」
 
 また、彼らの祭はその数の多さでも有名だ。
 地面に落ちた豆を拾い続ける「豆拾い」にはじまり、胡麻擦り祭、茹でた卵の殻剥き祭、海老の背腸取り祭、銀杏の皮剥き祭、栗の渋皮剥き祭など…

 
「すごい地味! いや剥くの好き過ぎだろ!? なんか恨みでもあんのかよ!?」
 
「…あまり真に受けるな」
 
 マリアの背後から低く静かな声が響いた。珍しい和服を着た男が静かに立っていた。
 
「此処にある本には、嘘も多い」
 
 なんだガセかよ。とマリアは残念そうに本を閉じた。
 
「マジだったらおもしろいのに。コレをネタに3日はリカちゃんいじれそう」
 
 マリアは戯れるような口調で、しかし視線は閉じた本の表紙に落としたまま、背後を振り返ることなく答えた。
 
 男は一瞬、何か言おうとして止め、「…マリア」とためらいがちに呼びかけた。
 
「先ほどの……気にしているのか」
 
 マリアは答えなかった。つかの間、沈黙がおりた。
 
「…それとも、信じられないか」
 
 マリアは、小さく首を振る。そして、わかんね。と困ったように笑った。
 
「分かんねぇけど、たぶん、悩んだって仕方ないんだろ? だから、気にしてないって言ったら嘘になるが、これ以上ここで凹んでる気はねぇよ。…お前が言うことが本当なら、そんな時間、俺には無いんだろ」
 
 和服の男は未だ顔を上げないマリアに近づき、その頭にぽんと手を置いた。マリアはそっと頭に置かれた手を振り払うことなく、ふと息を吐いて、弱く笑った。「オーリオ」と背後の男の名を呼んで振り返った。
 
「ありがとな。さっきの、話してくれて。俺、リカちゃんとこ帰るわ」
 
 オーリオは何も言わず、置いた手でぽんぽんと軽く頭を叩いた。その手の優しさにマリアは苦笑した。
 
「…なあ俺、お前にも色々迷惑掛けただろ」
 
 オーリオはマリアが椅子に放置したままの本を拾い上げ、それをそっと棚に戻しながら「慣れた」と返した。
 
「じゃあな」
 
「…また来い」
 
 おう。と応えて、マリアは店を出た。
 
 
 
 
 
 リカルドは、宿にとった部屋の隅にある机に向かい、仕事で出席した式典のことを報告書に纏めていた。
 リカルドにとって、今日は久しぶりの平和な一日だった。
 「旅のつれ」などと称し、勝手に旅についてくるあの煩い男がいなかったからだ。彼は珍しく、朝からどこかへ出かけ、今もまだ部屋に戻っていない。おかげで邪魔されることなく仕事ができ、リカルドは満足気に報告書を書いていた。
 そんな時、ノックもなく、部屋の扉が乱暴に開かれた。
 
「たっだいまー」
 
 予想通りの声が帰還を告げ、リカルドは疲れた様に息を吐いた。声の主であるマリアは、そのままリカルドの隣へ一直線に歩いて来た。
 
「ようリカちゃん。今日一日俺がいなくて寂しかった?」
 
「…とても快適に過ごせました。出来れば、これからも頻繁に姿を消していただけると助かります」
 
 振り向きもせず応えるリカルドに、冷てぇの、とマリアは不満気にこぼした。
 
「俺は一日リカちゃんに会えなくて寂しかった。もう離れてやらねえから安心してくれ」
 
 どうしたことだ。この男、今日はいつも以上に鬱陶しい。
 
「…やけにご機嫌ですね。いいことでもありましたか」
 
 リカルドは相変わらず書類にペンを走らせながら、心底どうでもよさそうな声で社交辞令のように聞いた。「いいこと、ね」と呟いた声が少し擦れて聞こえた。
 
「んー…あ、そうだリカちゃん」
 
 マリアは、何か悪戯でも思いついたようにニヤリと笑って問いかけた。
 
「リカちゃんの故郷ってさ、なんか祭とか、あんの?」
 
 ガタッ。と椅子を倒して立ち上がったリカルドに、マリアは驚いて身を引いた。
 
「えっ…あの…リカルドさん? 急にどしたの」
 
「……そうだ…そんな時期だったなんて…」
 
 明らかに様子が変だ。リカルドは立ち上がったまま虚空を睨み、そして力強くこう言った。
 
「帰ります」
 
「ちょ、どこへ!?」
 
「イスファリアです。今月末の祭の日までに帰らなければ…今からなら急げば間に合う」
 
「いや間に合うのか知らんが。何もこんな夜から出てくことないだろ?」
 
「今行かなければ間に合いません。今月の…栗の渋皮剥き祭にッ」
 
「実在した!? しかも一番微妙なのがっ! ちょ、待ってリカちゃん、マジで出てこうとしないでッ!!」
 
 その後、リカルドが正気に戻るまで、イスファリア人の本能という名の暴挙に走る彼から、宿の薄い扉を守り通すのがどれほど大変だったかは言うまでも無かった。間違いなく今までで一番の修羅場だった。とボロボロになったマリアは涙ながらに思ったという。
 
 翌朝、「今月の」ということは他の祭も実在するのだろうか。という疑問が生まれたが、それを問う勇気はマリアには無かった。
 
 
 

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