ほんの少しの寂しさと

毎年、春になると庭に植えた桜が舞う。
夫は毎年、月に照らされた美しい桜を見ながら浴びるように
飲んだ酒に酔いつぶれて眠ってしまう。
きっと、忘れたいのだろう。
私は今でも鮮明に思い出せる。
若かったあの頃。
風の噂は聞くけれど、もう二度と会えない人。


昔はいつも走ってた。
じっとしていられない。
寝ている時間さえもったいなく感じていた。
親の言う事も聞かずに恋人と一緒になった。
初めは順調だった。二人で仕事をしながらお金を貯めても生活費で全部なくなっちゃうけれど。
おかげで指輪も、髪飾りも、もらえなかったけれど世界で一番幸せなのだと思った。
しばらくして子供が出来た。小さな事で喧嘩が多くなった。夫が帰る時間が遅くなった。
愛人に別れて欲しいとせがまれた時、決意した。

荷物を整理していると自分の物は意外と少なくって驚いた。
夫が帰って来るまでと、子供を隣家に預けた。
置手紙を残すと、わずかなお金と荷物を持って、家を出た。

今更、親の元に帰る訳にはいかない。
すると何処に行けば良いのやらわからない。
私は外に出て初めて世間知らずだったと知った。
色々と頑張ってきた筈なのに残ったものは何にも無い。
夫と一緒に描いた未来は暗雲が立ち込めている。
不安で押しつぶされそうな胸を両手で押さえる。
今までの決心が崩れそうになって涙が出るのを必死にこらえようと顔をあげた。

目の前では、一面満開の花が舞っていた。
もう少し、此処にいようと思った。



『今はまだ小さい仕事しか入らない絵描きの端くれだけどいつか絶 対に成功するから!』
『ええ。』
『有名になって一緒に大きな家に住むんだ。』
『信じてる。』



「どうぞ。」
旅人らしき方が涙を拭くといいと言って、ハンカチを差し出してくれた。花と同じ色だ。 「・・・ありがとうございます。」
「いえいえ、それ差し上げましょう。
 とってもお好きそうですし。」
「えっ?」
「あれ、ちがいました?ずーっと花の前に立っていらっしゃるもの だから、大層御好きなのかと。」
そう言って、恥ずかしそうに私に微笑んでくれた。
「これ、本当にくださいますの?」
「はい?あぁ、ええ、どうぞどうぞ。」
「・・・ありがとうございます。大切にします。」
初めてのプレゼントだった。どこにしまおうか迷ったのでしっかりと手に持っている事にした。

そんな私の様子をクスリと笑って隣りにくると花を見上げて
「綺麗ですねー。」
風のように爽やかな声だった。
「ええ。」
「桜の一種で“染井吉野”と呼ぶんですよ。」
「この花が、ですか?」
「ええ、昔、とある国で染井と言う所の植木屋がまだ無名だった
 この桜を“江戸にいながら吉野の桜が見られる”という
 ふれこみで売り出したおかげでその国では一番良く知られる桜と なりました。」
植木屋がいなければずっと無名のはずだったのですよ。とも言っていた。
「ちょっとした事で世界はガラリと変わってしまうものです。…と いってもあなた次第ですがね。」

私はずっと“染井吉野”目が離せずにいた。
何も返さずに舞い散る桜を見つめていると、「受講料は高くつきますよ。」と笑って去って行った。

我に返り、改めて何処へ行こうかと悩んでいると夫が必死の形相で走って来る。
逃げようと思う前に抱きしめられてしまった。
泣きじゃくって顔をぐしゃぐしゃにしながら謝る夫を見ると思わず笑ってしまう。
久しぶりに手をつないで帰った。

ハンカチはこっそり袖の中へ隠した。



「で、なけなしの金が入った財布がいつの間にか掏られていて
 此処には空っぽの財布が一枚。
 やられましたねぇ、奥さん。」
後日伺った警察でうすっぺらのかぁるい財布を受け取り、持って帰ると夫に散々怒られてしまった。

財布の金額分、朝から晩まで死ぬ気で働いた。働きながら必死に夫を売り込んだ。
夫が“染井吉野”になるのに思ったより時間はかからなかった。
大きな家に住んでから初めて我侭を言って買って貰ったのは指輪でも髪飾りでもなくて・・・。



桜の下で眠ってしまった夫を介抱しながらそっとハンカチを出して、思う。


僧侶さん、あなたの事を。


[ 小話メニューへ戻る] [ トップページへ戻る]